恋愛の辛い思い出

さっきまで楽しそうに笑っていたM子が、何の前触れもなく一瞬で悪魔にとりつかれたような恐ろしい表情になり、話しかけても全く喋らなくなってしまった。私はまた発作が始まったのだと思った。十年前に一年ほど交際していたM子は、たいへんに難しい性格の持ち主で、例えば「自動車のシートを倒していいよ」と言ってくれなかったと言って泣き出したり、串カツ屋に入ってメニューを開いたところで「串カツは食べたくなかった」と言って泣き出したり、私にとっては本当にどうでもいい些細なことがキッカケで、簡単に発作を起こすような女だった。当時の私は起こってしまった発作を治めることと、発作を予防することに全神経を集中させていたため、M子と別れることにまで頭を回すことができずにいた。「どうしたの?」本当は何も聞きたくなかったのだが、質問をしないと発作が酷くなることは解っていたので、質問せざるを得なかった。「………」M子は言いたくて言いたくてしかたがないはずなのに、自分からは決して言おうとはしない。私が聞きたがっているから仕方なく話すという状況を、私の方で作り出してやらなければならないのだ。「どうしたの?言ってくれないと解らないじゃん」M子の心を刺激しないように赤ん坊に話しかけるような優しさで問いかけると、M子は低い囁き声で淡々と話し始めた。「あたしのお父さんって、凄く厳しい人なの」私はまるで舞台女優のようだと思った。「うん、聞いたことある」「あなたはなんで大学に行ってくれなかったの?」「え?」「あたしはそこそこの大学を卒業してるのに、男のあなたが高卒だなんて、お父さんや親戚にどうやって説明したらいいの?なんで大学に行ってくれなかったの?ねえ!」この時、M子はふたまたをかけていた。私の他にS彦という男と付き合っていたのだ。私がそのことについて問い詰めても、「だって二人とも好きなんだもん」と言って、この関係を続けたがっているようだった。経験上この問いに対する正解は「高卒でごめんね。私のような高卒と付き合っていただき、ありがとうございます」だが、この頃には流石の私も目を覚ましつつあったので、不正解を出してM子の機嫌を損ねても構わないと思った。「僕の家は裕福じゃないからね。大学に行きたいと言えば、何とかして行かせてくれたかも知れないけど、いつまでも親の脛をかじっているのは恥ずかしいことだと思ってたんだよ。そもそも家族の居る栃木から離れるつもりはなかったし、栃木で就職するなら、あまり学歴は影響しないからね。それより、少しでも早く自分でお金を稼いで、家族を楽させてあげたかったんだ。高卒でごめんね」ほとんど嘘だったが、M子を黙らせる効果はあったようだった。しばらく沈黙が続いた後、M子は泣きそうな声で「なんで早く言ってくれなかったの?」と言った。

動物園

女たちと動物園に行ってきました。

私の妻であるK子と、インターネットの友だちであるM子という女といっしょに行ってきました。この日、M子とはインターネットの外で初めて会うことになるため、以前の私であれば、かなり緊張していたはずですが、今の私は結婚して妻以外の女にモテる必要がなくなりましたから気楽なものでした。

 M子はブログに動物の写真をアップすることを趣味にしている女です。きっと動物が好きなのだろうと考え、私は上野動物園で会うことを提案しました。しかし、上野に現れたM子は開口一番「動物興味ないで」と言ったのです。私はあっけにとられてしまい、強張った笑顔を作って「え?動物興味ないんですか?」と言うことしかできませんでした。

土曜日の上野動物園は、それなりに混雑しており、入場券を買うためには行列に並ばなければなりませんでした。入場券売り場の長い行列を見た瞬間、私の体は硬直し、激しい動悸に襲われました。ある種の女を行列に並ばせると、突然ヒステリーを起こして暴れるケースがあるからです。しかし、M子は特に変わった様子もなく、最後まで落ち着いて列に並んでくれたので安心しました。

動物園に入場すると、真っ先にパンダの檻へと向かいました。動物園の人気者であるパンダの檻の前は酷く混雑しており、私は人ごみの中にいる間、ずっとお尻のポケットに入れてある財布を押えていなければなりませんでした。そうしておかないと財布をスラれるからです。

 

「つとむくんパンダに勝てる?」K子はパンダやゴリラなどの大型の動物を見るたびに、私がその動物に勝てるか勝てないかを尋ねてきました。こんな会話を人に聞かれたら困るのでやめてほしいと思いましたが、結婚生活を円満にするためには我慢が必要です。私は小声で「パンダには勝てないよ。腕の太さが違うだろ?」と答えました。

上野動物園はとても広く、複雑に入り組んでいました。女たちは地図が読めない生き物なので、私が園内マップ見て指示を出してやらなければなりませんでした。私が「どうやら、あっちのほうにライオンやゴリラがいるみたいですよ」と言うと、M子は「ドールもおるで」と言いました。私はドールがなんなのか知らなかったので、素直に「ドールってなんですか?」と尋ねました。するとM子は「知らん」と冷たく言い放ったのです。私は開いた口が塞がりませんでした。この女は一度ならず二度までも、ひとまわり以上も年上である私をおちょくったのです。しかし、私はグッと堪えて強張った笑顔を作り「え?ドール知らないんですか?」と言ったのです。その後、ドールの檻の前を通った時に、ちょっと中を覗いてみたところ、藪の中で犬がウロウロしていました。

その後も三人で時々ひとことふたこと言葉を交わしながら動物を見ました。動物園を一周する頃には、もうすっかり夕方になっており、そろそろ腹もすいてきていました。そこで、女たちに「晩御飯どうする?なにが食べたい?」と相談を持ちかけました。すると女たちは「なんでもいいよ」「男なんだからサッサと決めなよ」などと一方的に私を責め立ててきたのです。常識的に考えて、今日初めて会ったばかりの、しかも、ひとまわり以上も年上の男に対して、こんな人をバカにするようなことを言おうものなら、この女は頭がおかしいのではないかと思われるでしょう。しかし、私たちは以前からインターネットでお互いのブログを読んでいた仲なので、少しくらいおちょくられても、笑って許すことができるのです。